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隋は高句麗侵略に失敗して滅びたんだんべね
● 隋は高句麗侵略に失敗して滅びたんだんべね。

 白村江海戦は、高句麗・百済・倭連合軍と唐・新羅連合軍の戦争だんべね。

いやぁまんずまんず、朝鮮半島さまの古代史はたいへんだんべ。ほとんどカオスだんべ。
高句麗さま、馬韓さま、辰韓さま、弁韓さま、 伽耶さま、百済さま、新羅さま、公孫氏さま。

500年間続いた中国古代春秋戦国時代さまの内戦。

倭国大乱より、すごかったんべね、朝鮮古代さまと中国古代さま、はぁ。

旧大陸から日本列島に渡来弥生人としてくるしかないよね。
日本列島は当時の新世界だけんね。アメリカUSAとおなじだんべね。移民による国家づくり。
701年の大宝律令はアメリカUSA独立宣言だったよね。
720年の「日本書紀」は社会主義革命としての正統ヒストリー建設のストーリーだんば。ソ連革命史だんべよ。
藤原フヒトさまによる国家デザインとしてのソビエト運動、評議会運動こそ律令制度としての社会主義革命運動。
東北はソビエト運動(領土拡張)の根幹だんべ。その心臓部こそ水田稲作集団農業コルホーズだんべ。
レーニンさまより藤原フヒトさまの方が能力あったんべ。
ソ連革命史は70年間のエピソードになってしまったがんね。

日本革命史の「日本書紀」は「続日本書紀」まで継承され、21世紀のいまも規定してがんね。1300年、生き延びているがんね。

あれだんべね。大阪にきた弥生人はそこで稲作開発し、今度は名古屋に来たよね。その東は森林で閉ざされていたよね。
縄文人の土地を奪っていったんだよね。
ほんで船で小田原の海岸べりにきたよね。そこでは縄文人の森を切り開く開墾テクノロジーを学習していったよね。
小田原の方法で関東といいますか坂東の稲作開発に成功していくよね。

弥生人はなんせ中国古代の「商」が先祖ですけん、縄文人という他者から森とか山岳について学習していったよね。
日本の「商」は、他者学習能力が高度だんべ。はぁ・・・



白村江戦争ですけんど、当時の倭政権はそれほど全面戦争として、かまえていないよね。はぁ・・・
日本海ルートで阿部様が東北侵略して出羽国を創建するんですけんど、いはぁ・・・船がすごいよ。
白村江戦争に派兵された船より、日本海ルート東北侵略に派兵された船のほうが多がんべよ。

当時の倭さまは唐と戦争しても勝利できないことは分析していたんだんべね。
それよりも、あんた様、日本海ルートの東北侵略のほうが重要だんべよ。

水田稲作開発という古代社会主義国家の根幹戦略こそ命題だかんね。
当時の朝鮮半島の戦乱は旧世界の泥沼といいますか、めんどうくさくて・・・

まぁ同盟国の百済様から援軍派兵要請がありましたけんど、当時の倭政権は援軍にとどめていたんべ。

白村江海戦が敗れて、「倭」から「日本」に国名を変更しました、ごめんと唐帝国に認証させたよね。
あれはぁ・・・まんず、日本「商」のど根性だんべ。

おら、東北青森津軽の「日ノ本国」が唐に派遣したと思いこんでいたんべな、もし。
いまの青森人はお天道様(太陽)に、よくおまいりしてがんね。青森人の神さまは太陽さまだんべ。
「日ノ本国」の信仰と伝統はいまも生きていっぺ。

日本海ルートで東北侵略、出羽国を創建した阿部様の知恵だんべね。
「いい国名があるぞな、もし・・・日ノ本・・・日本がどうだんべな、もし」

「いいがんべぇ・・・それにすべぇ・・・倭は捨てるべ、新しい国家の誕生だんべ」
これが日本「商」の知恵といいますか、ど根性だんべね。

まぁ、その伝統は徳川幕藩体制の「商」にもきてるがんね。
「士農工商」という最低身分が「商」でしたんですけんど、徳川幕藩体制の根幹ヒストリーは「商」のストーリーだんべよ。

日本はシルクロードの最終地点である「新世界」だったかんね。
アメリカUSAみたいにエネルギーある「商」の世界だったんべね。
米も貨幣で「農」も「商」だったがんね。日本の百姓は基本的に「商」だったんべ。

まんず、アメリカUSA様との戦争は新世界どおしの競合をめぐる戦争だったんだよね。
いずれはぁ、ぶつかり戦争する運命だったんだんべ・・・はぁ・・・

日本の「商」は敗戦をこやしにアメリカUSAさまという他者を学習していったのが、史的敗戦後だんべね。
日本よりも「新世界」が存在していたんだんべよ。はぁ・・・

日本史とはまだまだ「商」の歴史としては解明されていながんべね、おそらく。
教科書の「日本史」はぁ・・・どうでもよがんべ。

日本の基層である「古代道教」と「商」こそが、日本歴史の地下水脈だんべ。


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馬韓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
馬韓(ばかん)は、中国三国時代に、朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。帯方郡の南、黄海に接し、東方は辰韓、南方は弁韓に接していた。後の百済と重なる場所にあった地域である。

馬韓人は定住民であり、穀物を植え、養蚕を行っていた。それぞれの部族には酋長がおり、大きな部族の酋長を臣智(しんち)と言い、それに次ぐものを邑借(ゆうしゃく)と呼び、集落に城郭は無く、五十余国が存在した。その内の伯済国が百済になったと言われている。

馬韓の言い伝えによれば、秦の労役から逃れてきた難民たちに馬韓の東の土地を割き、そこに住み着いたのが辰韓人とされ、辰韓と馬韓の言葉は異なっていたと言われている。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%9F%93" より作成

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%9F%93--------------------------------------------------------
●辰韓 しんかん

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 古代朝鮮半島の洛東江以東,慶尚道地域に居住した韓族。北方の東海岸にはワイゾク※注1※が,西南部(現忠清・全羅道)には馬韓族がいた。また,洛東江本・支流域には弁韓の諸族がいた。3世紀ごろ辰韓の地には12の小国が群立した。各小国の位置の比定は明確ではないが,斯廬国(しろこく)が,慶州盆地の兄山江上流域に存在したことは確かである。斯廬国が母胎となって新羅国が形成された。各小国はいくつかの小共同体が結合したもので,各共同体には首長がおり,有力首長が下位首長を媒介として各共同体を従属させる形態の首長制国家(城邑国家)であった。大国でも4~5,000戸,小国では6~700戸程度の規模のものであった。水田耕作が行われ,予祝・豊穣の儀礼には人々は集まって歌舞飲酒した。鉄の豊かな生産があり,ワイゾク※注1※や倭人が交易に来た。


http://www.tabiken.com/history/doc/J/J159L200.HTM-----------------------------------------------------------
弁韓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
弁韓 (べんかん)は、中国三国時代に、朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。弁辰とも言う。馬韓と辰韓の南、日本海に接し、後の任那と重なる場所にあった地域である。その境は、辰韓と接しており入り組んでいた。

弁韓国は十二国に分かれており鉄の一大産地であり、倭や楽浪郡などもこの地で鉄を求めていた様である。風俗や言語は辰韓に似通っているが若干異なっていた様である。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E9%9F%93" より作成

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E9%9F%93-------------------------------------------------------------------------------
加羅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
加羅(カラ)は、古くは、伽耶もしくは任那の日本及び中国における呼び名で、現代は韓国でも使われる。しかしながら、史書では任那と加羅を分ける事も多く、別の国であるか、任那と呼ばれる地域の一国であった可能性が高い。駕洛国(伽耶国の別称)の中国における音写である可能性も考えられる。加羅の名称は朝鮮の歴史書である三国史記・三国遺事には見られず、主に中国の正史、日本書紀などで散見される。

日本に取っての一番近い外国であったようで、外国一般の事も「から」と呼んでいた。「から」と言う呼称は、韓や唐と言う字の訓読にもあてられ現代も舶来物を唐物(からもの)と呼ぶなどその痕跡が残っている。



目次 [非表示]
1 概説
2 前期伽耶連盟
3 後期伽耶連盟
4 参考サイト



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概説
三国史記などの文献史料に現われた伽耶諸国に関する記録は西暦3世紀までは神話・伝承記録に過ぎないが、農耕生産の普及と支石墓を持った社会形態などで紀元前1世紀頃に初期形態の国家が形成されたと推測される。西暦紀元前後に鉄器文化が普及して、弁韓諸国が出現し,これら諸国間の統合が進行して西暦2,3世紀には弁韓地域に金海の伽耶国を中心にした前期伽耶連盟が成立、4世紀初以後その勢力が弱化し始めて4世紀末5世紀初にはほとんど沒落した. 5世紀後半に再統合の機運が起きて高霊の大伽耶国を中心に後期伽耶連盟が形成されて6世紀初には独自勢力を確立したが,結局562年新羅に併合された.

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前期伽耶連盟
韓半島南部洛東江下流地域は紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて無紋土器系統の住民が定着しはじめた。彼らは農耕生活をしながら富が蓄積し、支石墓を築造、青銅器を所有していた。 紀元前1世紀頃に青銅器と鉄器文化を背景で社会統合が進み、慶尚北道の大邱・慶州地域に辰韓諸国が現われ始めた.やがて西紀前後これらの製鉄技術が慶尚南道海岸地帯に普及したことで、この地域は豊かな鉄産地の保有と海運の良好な条件で相当な富と技術を蓄積するようになった.それによって社会統合が進み、弁韓諸国が登場してくる。 西暦2,3世紀に至って半島東南部の諸国は共通の文化基盤をもっていたが、政治的には辰韓と弁韓に大きく分けられていた.当時弁韓地域の多くの小国の中で一番優勢な勢力は金海の伽耶国であり、伽耶国を盟主として前期伽耶連盟を形成,対外的に周辺地域と交易を行い、辰韓(新羅)と勢力を争ったりした.前期伽耶連盟の文化中心は金海・咸安を取り囲んだ慶尚南道海岸地帯だった。高霊・咸陽の内陸山間地方は周辺地域に属したまま後進状態にあった. 4世紀初に至って高句麗が楽浪郡・帯方郡を消滅させて新羅にまで勢力を及ぼし、百済も4世紀中葉に韓半島南端の伽耶にまで影響力を及ぼすようになった。また新羅も辰韓の盟主として独自の勢力を固めていた.伽耶は楽浪との交易断絶で打撃を受けたが、百済と商業交易を引き続き行った.しかし4世紀末から5世紀初高句麗・百済の間の覇権争いで百済が敗れて高句麗広開土王の軍隊が洛東江下流まで達して伽耶を討伐したので前期伽耶連盟は大きな打撃を受けて瓦解した。これに比べて高霊・咸陽などの内陸山間後進地域は戦争の被害を被らないで勢力を維持することができ、新羅に近い伽耶地域は新羅影響圏に入った。

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後期伽耶連盟
勢力が縮小した伽耶地域は5世紀に入って再び成長し始めた。西部慶尚道内陸地方の高霊・居昌・山清・咸陽・南原などの勢力は急速に発展し、先進地域でから脱落した慶尚南道海岸地帯の金海・咸安・泗川などの勢力も復旧の動きを見せていた.このような中、新羅は5世紀前半に高句麗の干渉を排除して百済と和親を結んだが,高句麗の長寿王は南下政策を推進して475年百済を撃って首都・漢城を陷落させ,新羅はこの機会に秋風嶺を越えて西方に進出するなど国際環境が大きく変動した. 5世紀後半に周辺情勢が急変すると危機意識を感じた旧伽耶地域の小国の間に伽耶の再統合動きが起きたが,高霊地方の主体勢力だった半路国(または半跛国)が主導して後期伽耶連盟を形成した.高霊大伽耶を中心にした後期伽耶連盟は481年高句麗・靺鞨の新羅侵入に対して百済と同盟して援兵を送るほどに国際的に成長した。その後百済と倭が河東を交易場に利用しようとすると、大伽揶は百済と小白山脈を境界とし軍事的に対峙するようになった.百済と倭が伽耶をさしおいて交易を頻繁にすると,大伽耶の異脳王は国際的孤立から脱するために522年新羅の法興王と婚姻同盟を結んで安定をはかった.その後、後期伽耶連盟の一国だった卓淳などが新羅に併合され、伽耶南部地域は新羅・百済の争奪戦に巻き込まれ、結局新羅に併合された.後期伽耶地域の中で最も優勢だった大伽耶は自分の勢力だけで新羅に対抗したが,結局562年新羅に併合された.

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参考サイト
[http://kr.ks.yahoo.com/service/wiki_know/know_view.html?tnum=911
wiki-know韓国語版「伽耶」]
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E7%BE%85" より作成
カテゴリ: 朝鮮の歴史

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E7%BE%85------------------------------------------------------------------------------------------
高句麗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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高句麗(こうくり, 紀元前37年ころ - 668年)は、満州から朝鮮半島にかけて存在した扶余系民族とその国家名。隋煬帝、唐太宗による遠征を何度も撃退したが、唐と新羅による連合軍に滅ぼされた。

三国時代

三国時代の地図、5世紀終わり頃
高句麗
各種表記
英語: Goguryeo
ハングル: 고구려
漢字: 高句麗
片仮名転写: コグリョ

高句麗は扶余系民族が建てた国で鴨緑江周辺で農耕を主としてその他に牧畜・狩猟を生業としていた。高句麗の名称は「大きな都城」の意味であるらしい。

高句麗は後継の渤海と同じように北朝鮮・韓国と中国の間で高句麗史はどちらの歴史に帰属するかについて論争が起きている。2004年に北京政府が高句麗は自国の地方政権であるとの認識を打ち出したところ、韓国から激しい反発を受けて外交問題に発展しかけた。(詳細は、高句麗問題)

後述するように、高句麗の故地は満州であるが、平壌に都したこともあり、どちらととるかは難しい。常識的に考えれば、高句麗は半島の歴史上の国家であり、かつ中国の歴史上の国家でもある、ということだろう。ある古代国家がどの現代国家の歴史に属するのか、二者択一的に定めよ、という問題設定自体が適当でないと思われる。

目次 [非表示]
1 歴史
1.1 建国神話
1.2 卒本城時期
1.3 丸都城時期
1.4 平壌城時期
1.5 滅亡後
2 人種
3 文化
4 国際関係
4.1 北方民族との関係
4.2 日本との関係
5 高句麗歴代王
6 関連項目
7 外部リンク



歴史

建国神話
三国史記によれば、高句麗は紀元前37年に朱蒙により立てられたとされる。朱蒙の母は河の神の娘で天帝の子と出会って結ばれるが、父の怒りを買って東扶余王の金蛙の所へ送られた。やがて娘は太陽の光を浴びて身篭り、卵を産んだ。この卵を金蛙は動物に食べさせようとしたが動物はこの卵を守り、卵から朱蒙が産まれる。朱蒙は生まれた時から非常に弓が上手く(朱蒙と言うのは弓の名手のこと)、これに嫉妬した金蛙の息子たちは朱蒙を殺そうとするが、朱蒙は母の助言でいち早く脱出して卒本州に至り、ここで高句麗を建てたという。


卒本城時期
初期の高句麗は、紀元前1世紀頃には現在の中国遼寧省桓仁県(遼寧省と吉林省の省境近くの鴨緑江の少し北)の五女山城を都とした。これを卒本城という。当時、この地域には前漢の武帝により立てられた楽浪郡などの四郡の一つ玄菟郡(げんとぐん)が存在していた。この郡は初め中心が朝鮮北部にあったのだが、宣帝の時代の紀元前75年に西に移動して中心を高句驪県としている。これが高句麗の名前が出た最初であり、どうやらこのころに高句麗が建国されたようである。建国後まもなく、西暦3年に高句麗は鴨緑江岸の丸都城に遷都した。


丸都城時期
丸都城は現・吉林省集安市(桓仁と省境を挟んで反対側、通化地級市の所管)の山城である。その後、山上を下りて平地の国内城に移ったが、山城の丸都城と平城の国内城は一体とみるべきだろう。高句麗は次第に四方に勢力を延ばし、玄菟郡を西に追いやった。後漢の統制力が黄巾の乱により弛緩すると、遼東には公孫氏が自立するようになり、高句麗と対立した。遷都後に公孫氏が魏の司馬懿により滅ぼされたために、魏と国境を接して対立するようになり、魏の将軍毋丘倹により首都を攻略された。東川王は東に逃れ、魏軍が引き上げた後に首都を再興した。

その後も遼東半島への進出を目指し、西晋の八王の乱・五胡の進入などの混乱に乗じて楽浪郡を滅ぼし、更にこの地にいた漢人を登用する事で文化的、制度的な発展も遂げた。しかしその後遼西に前燕を建国した鮮卑慕容部の慕容皝に国都を落とされ、臣従をせざるを得なくなった。その後はあまり奮わなくなり、百済との抗争で故国原王が戦死し、国内は混乱に陥った。前燕が前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従する。この時期の372年、前秦から僧侶・仏典・仏像などが伝来している。

391年に即位した19代広開土王は後燕と戦い遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って一時は首都のすぐ傍まで迫り、臣従を誓わせた。その後、百済が倭と結んで新羅を攻めたので援軍を送り、倭を追い返して新羅を朝貢国にした。

広開土王の後も高句麗の伸長は続き、長寿王は平壌城に遷都した。


平壌城時期
長寿王は西へ進出し遼東を完全に勢力下として遼河以東を全て手に入れる。更に475年には百済の首都を陥落させ百済王を殺し、百済は南に遷都した。この時期には遼東半島、朝鮮半島の半ば、満州を領有する大帝国となり、高句麗の最盛期とされる。

しかしその後、盟下にいた新羅の勢力が大きくなり、百済と新羅の連合軍により領土を大幅に削られる。危機感を覚えた高句麗は百済に接近し、西の中国南北朝には朝貢を行い、友好を保って、新羅との対立を深めていく。

中国に隋が誕生すると対抗するために遊牧民族・突厥と結び、これを危惧した隋の初代文帝・二代煬帝の4度にわたる遠征軍を受けるが、全て撃退し隋の滅亡の原因を作った(このときの英雄が乙支文徳)。隋が倒れ、唐が立つと、今度は太宗による唐の遠征軍を受けるが、こちらも2度撃退し、さらに高宗期の3度の遠征も撃退した。中国との争いで国力を疲弊した高句麗は何度か百済と結んで新羅を攻めるが、新羅は唐に助けを求め、668年に唐・新羅連合軍に首都を落とされ、高句麗は滅んだ。


滅亡後
その後、高句麗遺民は営州(現在の遼寧省朝陽市)へ強制移住させられるが、その中の靺鞨族の指導者により逃亡、その指導者の息子・大祚栄が東牟山(現在の吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)で独立し震国(大震)を建てた。後の渤海である。渤海は8世紀から9世紀にかけて繁栄を遂げた後、926年に新興国契丹によって滅ぼされた。末裔は数度にわたって再興を目指したが全て失敗した。しかし、後に勃興した女真の金において、彼らは大いに重用され、その中で女真に取り込まれてゆき、歴史から姿を消した。

朝鮮半島では10世紀初め、新羅の王族弓裔が高句麗の後継を目指して後高句麗を名乗り挙兵、新羅北部の大半を占領し独立した。その後、後高句麗の将、王建が後高句麗を乗っ取り、同じく高句麗の再興を意識した高麗が生まれる。後高句麗及び高麗は同時期に滅亡した渤海の難民を、同胞として積極的に迎え入れた。

なお、高句麗の遺民の一部には日本へ逃れた者もいる。例えば、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市)は高句麗の遺民たちが住んだところと言われており、高麗神社・高麗川などの名にその名残を留めている。

ちなみに東洋史学者である日野開三郎は弓裔の立てた「後高句麗国」とは別に唐が現在の遼東半島一帯に旧高句麗王族を擁立して成立させた‘唐の傀儡政権’としての『後高句麗国』が存在しており、契丹の遼東占領時に滅亡したとする学説を唱えている。


人種
高句麗人はその起源伝説の類似点から、扶余と同じ民族であると考えられている。扶余系民族はツングース系であると言われているが、消滅してしまったためはっきりとした確証は存在しない。


文化
高句麗の文化は石の文化だといわれる。石で築かれた墓(積石塚)と石で築かれた山城が代表的である。高句麗山城は近年、中国や北朝鮮で大量に発見されており、韓国でも高句麗の勢力が及んでいた地域で高句麗式山城がいくつか発見されている。積石塚は高句麗前期の墓制で、後期には横穴式石室に移行した。高句麗墓の特徴として華麗な古墳壁画が挙げられる。すでに前期古墳にもみられるもので、高句麗独自の風俗や文化を後世に伝えるものとして重要視されている。ただ起源は中国の古墳壁画にある。


国際関係

北方民族との関係
高句麗は鴨緑江中流域の中国郡県内に建国し、漢人地域に対する略奪や侵略で強大化したため、当初から中国文化の影響が強く、匈奴や柔然との関係はそれほど強くはなかった。しかし4世紀になって中国が五胡十六国時代の混乱に陥り、遼西に興起した鮮卑慕容部が前燕を立てると高句麗はその攻撃を受けて丸都城を落とされ、臣従するようになった。だが華北に進出した前燕は前秦によって急速に滅ぼされ、華北の混乱は高句麗に有利に作用した(この前秦国が高句麗に仏教を伝えた)。この頃高句麗はシラムレン河流域の契丹や北部満州の黒水靺鞨にも勢力を延ばしている。また北燕の天王には高句麗人が擁立されたこともあった。

6世紀に入ってモンゴル高原に突厥が興起すると、契丹や靺鞨など弱小民族の支配権をめぐって突厥と対立関係が生じた。『三国史記』には突厥が高句麗の新城を攻撃した記事が見え、突厥の「ビルゲ可汗碑」にも初代突厥可汗が東方のボクリ可汗を攻撃した記事がみえる。しかし隋が中国を統一すると巧妙な外交で突厥を分裂させ、一部の契丹や靺鞨が隋に帰付するようになると、高句麗と隋の関係が緊張し、高句麗平陽王が隋の営州を攻撃して戦争に発展した。

やがて突厥が復興の兆しを見せると高句麗は対隋戦略上、突厥に接近した。この時期には突厥を通じて西域諸国とも通好したようである。だが高句麗と突厥の通好は隋の疑心を招き、隋煬帝の大遠征に発展した。隋は高句麗を征服することができず、かえって国内の反乱によって滅ぶ。突厥はこの機会に乗じて再び勢いを盛り返した。その後高句麗が唐に滅ぼされた時、后突厥に亡命した高句麗人もいた。


日本との関係
長野県には5世紀から6世紀にかけての高句麗式積石塚が多数分布し、東京都狛江市の亀塚古墳も高句麗式とされる。また狛、巨麻の古代地名は日本各地に分布する。

甲斐国巨麻郡
武蔵国多磨郡狛江郷
河内国大県郡巨麻郷
河内国若江郡巨麻郷
山城国相楽郡大狛郷、下狛郷
4世紀末から5世紀にかけて倭国(日本)と高句麗は敵対関係にあったので、当時の高句麗人が自発的に移住してきたのか戦争捕虜であったのかは不明である。しかし、6世紀になって百済と高句麗の関係が改善するにつれて倭国と高句麗との関係も友好的なものとなり、相互の通好も行われた。聖徳太子の師となった高句麗僧・恵慈は有名である。ここで新撰姓氏録に見える高句麗系氏族を列挙しておくと、

狛人  高麗国須牟祁王の後(河内国未定雑姓)
狛造  高麗国主夫連王より出(山城国諸蕃)
狛首  高麗国人安岡上王の後(右京諸蕃)
狛染部 高麗国須牟祁王の後(河内国未定雑姓)
大狛連 高麗国溢士福貴王の後(河内国諸蕃)
大狛連 高麗国人伊斯沙礼斯の後(和泉国諸蕃)
668年に高句麗が滅亡すると倭国に亡命してきた高句麗人もあり、716年には武蔵国に高麗郡が建郡された。高麗郡大領となる高麗若光には705年に王(こきし)の姓が贈られており、高句麗王族であろうとされる。高麗郡高麗郷の地である埼玉県日高市にはこの高麗王若光を祭る高麗神社が今も鎮座する。


高句麗歴代王
東明聖王(高 朱蒙 紀元前58年? - 紀元前19年? 在位紀元前37年? - 紀元前19年?)
瑠璃明王(解 類利 ? - 18年 在位紀元前19年 - 18年)
大武神王(解 無恤 4年 - 44年 在位18年 - 44年)
閔中王(解 色朱 ? - 48年 在位44年 - 48年)
慕本王(解 解憂 ? - 53年 在位48年 - 53年)
太祖大王(解 宮 47年 - 165年 在位53年 - 146年)
次大王(解 遂成 71年 - 165年 在位146年 - 165年)
新大王(解 伯固 89年 - 179年 在位165年 - 179年)
故國川王(解 男武 ? - 197年 在位179年 - 197年)
山上王(解 延優 ? - 227年 在位197年 - 227年)
東川王(解 憂位居 ? - 248年 在位227年 - 247年)
中川王(解 然弗 ? - 270年 在位247年 - 270年)
西川王(解 薬盧 ? - 292年 在位270年 - 292年)
烽上王(解 相夫 ? - 300年 在位292年 - 300年)
美川王(高 乙弗 ? - 331年 在位300年 - 331年)
故國原王(解 斯由 ? - 371年 在位331年 - 371年)
小獣林王(解 丘夫 ? - 384年 在位371年 - 384年)
故國壌王(解 伊連 ? - 391年 在位384年 - 391年)
広開土王(解 談徳 374年 - 413年 在位391年 - 413年)
長寿王(高 巨連 394年 - 490年 在位413年 - 490年)
文咨明王(解 羅雲 ? - 519年 在位491年 - 519年)
安蔵王(解 興安 ? - 519年 在位519年 - 531年)
安原王(解 寶延 生没年不詳 在位531年 - 545年)
陽原王(解 平成 ? - 559年 在位545年 - 559年)
平原王(解 陽城 ? - 590年 在位559年 - 590年)
嬰陽王(解 元 ? - 618年 在位590年 - 618年)
榮留王(解 健武 ? - 641年 在位618年 - 641年)
寶蔵王(? - 681年 在位642年 - 668年)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97

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公孫氏
(2C後半~238) 2世紀後半、後漢の地方官だった公孫度が遼東に築いた政権。
民族・風習は漢とほぼ同じ。
朝鮮半島中西部の帯方郡を境に南は韓と接し、東北は高句麗、
西北は烏丸・鮮卑、西南は漢・魏の幽州と接する。
漢・魏は公孫氏政権があった為、遼東以東を絶域とみなし、
東夷諸国との通交を行わなかった。
 
2世紀後半、黄巾の乱後の混乱に乗じて公孫度が遼東地方に半独立政権を樹立。
高句麗・後漢と争いながら、楽浪郡・山東半島まで勢力を伸ばす。
204年、公孫度の子公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設置、韓を勢力下に置いた。
公孫康は後漢に服属し、左将軍の官位を授けられた。
228年、公孫康の子公孫淵は叔父公孫恭から位を奪いとった。
公孫淵は魏に臣従を装いながらも、呉と同盟工作を行うなど密かに独立を謀っていた。
236年、皇帝曹叡から上洛を求められると、公孫淵は魏に反旗を翻し、燕王を称した。
一度は魏の幽州刺史カン丘倹の軍を退けたが、238年、太尉司馬懿の討伐を受け、
国都襄平に包囲され、一族ともに滅ぼされた。

公孫氏系図

中国皇帝 年号 王・族長 事跡


公孫延 公孫延、役人の追及を逃れ、玄菟郡に移住する


公孫度 公孫豹(度)、玄菟太守公孫[王或]の庇護を受ける


公孫度 公孫豹(度)、玄菟郡の官吏に登用される
霊帝
公孫度 公孫度([王或]?)、高句麗王伯固と協力して富山の賊を平定する
霊帝 184 公孫度 公孫度、高句麗王男武と戦う
霊帝
公孫度 公孫度、冀州刺史となるが流言により罷免される
献帝 189 公孫度 公孫度、徐栄の推薦で遼東太守となる
献帝 190 公孫度 公孫度、遼東侯・平州牧を称す



公孫度、遼東郡を分割し、遼西中遼郡を置く



公孫度、渡海して東莱郡を征服し、営州刺史を置く
献帝
公孫度 公孫度、扶余国王尉仇台に一族の娘を娶せる
献帝
公孫度 公孫度、楽浪・玄菟郡を勢力下に置く
献帝 196 公孫度 王烈・管寧・ヘイ原らが遼東に難を避ける
献帝
公孫度 曹操、上表して公孫度を武威将軍・永寧郷侯に任じる



公孫度、任命を不満とし、印綬を封印する
献帝
公孫度 ヘイ原、遼東を去り、北海に帰る
献帝 204 公孫度 公孫度死す、長男の公孫康が後を継ぐ


公孫康 公孫康、楽浪郡の南に帯方郡を置く



公孫康、帯方郡の移民を募り、韓ワイを討ち勢力下に置く
献帝 205 公孫康 曹操の武将張遼、海岸沿いに北上し公孫康の部下柳毅を破る
献帝 206 公孫康 公孫康、亡命してきた<>烏丸の速附丸を斬る
献帝 207 公孫康 公孫康、亡命してきた袁尚・袁煕を殺害し、首を曹操に送る



曹操、上表して公孫康を左将軍・襄平侯に任じる
献帝 209 公孫康 公孫康、高句麗を攻める



高句麗王伊夷模の兄抜奇、公孫康に帰順する



高句麗王伊夷模、公孫康に追われ、都を移す
献帝
公孫康 この頃、公孫康没し、弟の公孫恭が後を継ぐ
献帝 218 公孫恭 王烈、遼東の地で没す


公孫恭 公孫恭、公孫康の長男晃を人質として送る
曹丕 221 公孫恭 曹丕、公孫恭を車騎将軍に任じ、公孫康に大司馬を追贈する

223 公孫恭 管寧、曹丕の招きに応じ、遼東を離れる
曹叡 228 公孫恭 公孫恭、甥の公孫淵に位を追われる


公孫淵 曹叡、公孫淵を揚烈将軍・遼東太守に任じる
曹叡 232 公孫淵 呉の孫権、周賀・裴潜を遣わして公孫淵に勅書を届ける



公孫淵、宿舒と孫綜を遣わして孫権に朝貢する
曹叡 233 公孫淵 孫権、張弥と許晏を遣わして公孫淵を燕王に封じる



公孫淵、張弥と許晏を殺害し、首を魏に届ける



曹叡、公孫淵を大司馬・楽浪公に封じる
曹叡
公孫淵 曹叡、カン丘倹を楽浪郡南に派遣して呉と高句麗に備える
曹叡 236 公孫淵 公孫淵、曹叡の入朝命令を拒み、魏に反旗を翻す
曹叡 237 公孫淵 カン丘倹、遼東に侵入したが、出水に逢い兵を引く



公孫淵、自立して燕王を称し、元号を紹漢と定める



公孫淵、鮮卑の単于に働きかけ、魏の北辺を荒らさせる
曹叡 238 公孫淵 魏の司馬懿、4万の兵で遼東に侵入する



公孫淵、孫権に謝罪し、救援を求める



公孫淵、襄平城で司馬懿に包囲される



公孫淵、襄平を脱出して逃走を図り、司馬懿に斬られる



劉[日斤]と鮮于嗣、海路朝鮮半島に渡り、楽浪・帯方郡を平定する



公孫淵の兄公孫晃、洛陽の獄中で金屑を飲まされて死ぬ

http://www2u.biglobe.ne.jp/~dnak/sangoku/kouson.htm

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●曹操 武帝(~)(在位~)
姓は曹。名は操。字は孟徳。夏侯嵩の息子。安徽省出身。

父親の夏侯嵩は曹騰(漢の名門である曹家出身)の養子となった。

漢の朝庭において宦官は大権力者。曹家は各種の利権を持つ超・大金持ちだった。

超・大金持ちの息子・曹操は若い頃からのカブキ物。

学問に優れた優秀な若者だったが不良仲間の袁紹などと悪さを繰り返していた。

黄巾の乱がおきると将軍として追討に活躍。

何進と袁紹が宦官全滅を狙い失敗し、どさくさ紛れに董卓が宮廷権力を握ると曹操は董卓討伐のため袁紹と共に挙兵した。

しかし董卓討伐の同盟軍は振るわず、突出して董卓軍と戦った曹操は敗北して逃走した。

董卓は自滅したが以後は各武将と黄巾軍が入り乱れる群雄割拠の状況となり、曹操は黄巾軍を打ち破り、その兵力を吸収しながら群雄の一角として成長していった。

曹操は、名目だけの存在となり放浪をしていた漢の皇帝・献帝の重要性にいちはやく気づき献帝を迎え入れた。

徐州の陶謙配下の兵士に父親の曹嵩を殺されてしまう。

陶謙を討つための遠征中に本拠地を呂布に攻撃される。

曹操は呂布を追うが呂布は陶謙の後継者である劉備のもとに逃れ、やがて呂布は徐州を奪う。

追い出された劉備を収容した曹操は呂布を討ち果たした。

群雄の張繍を苦闘の末に倒すが

●夏侯惇(~)(在位~)
姓は夏侯。名は惇。字は元譲。

曹操の従兄弟。

●陶謙
燕(公孫氏の国)
●公孫氏
後漢が衰弱し、三国志の英傑たちが各地で割拠していた頃。

中国と高句麗の間にある遼東地域を支配した群雄がいた。

それが公孫度。彼と彼の一族は、50年間にわたりこの地域を領有し、半独立の状況だった。

●公孫度(~)(在位190~204)
姓は公孫。名は度。

の息子。

出身不明。

西暦190年、中国では董卓の乱がおきていた。

この混乱に乗じて遼東地方を切り従え、遼東候。平州牧を名乗り独立した。

●公孫康(~)(在位204~221)
姓は公孫。名は康。

公孫度の息子。

父のあとを継ぎ、遼東を支配した。

曹操に敗れた袁尚(袁紹の息子)が遼東に逃げ込んできた時、

これを捕らえて首を斬り、曹操に送った。

この功績により襄平候の地位を得る。

209年、高句麗の伊夷模=山上王高延優を大破する。

公孫氏の勢力は強くなるが、中国はしだいに曹操により統一されようとしていた。

曹氏と公孫氏。共通の敵が消えていき、直接国境を接するようになった。

●公孫恭(~)(在位221~228)
姓は公孫。名は恭。

公孫度の息子。公孫康の弟。

公孫淵に殺される。

●公孫淵(~)(在位228~238)
姓は公孫。名は淵。

公孫康の息子。

叔父・公孫恭を殺して地位を奪い取る。

229年、皇帝に即位した呉の孫権からの使者を受け入れた。

236年、呉の使者が来る。

233年、呉から燕王に任命されるが、その使者を斬殺する。魏から楽浪公に任命される。

234年、諸葛孔明五丈原にて病死。蜀からの圧力減少。

237年、魏の将軍・毋丘倹による攻撃を受けるが撃退。燕王に即位。紹漢元年。

238年、魏の将軍・司馬懿による攻撃を受け、敗北。殺される。

高句麗や鮮卑族も公孫淵攻撃に加わった。

かつて高句麗は公孫度・公孫康に破られており、貰った分を返した、というところか。

公孫淵の滅亡により魏と韓半島や倭国の間に障害物は無くなった。

滅亡したその年に馬韓から魏に使者が送られた。

滅亡の翌年、邪馬台国から魏に使者が送られた。

http://homepage1.nifty.com/history/history/gi.htm

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